←お読みになる前に是非ともクリックをお願い致します。あなたのクリックでこ
のブログのランキング順位が上がります。ランキング1位を目指しております。2014(平成26)年がはじまった。
去年、自分を変えようと思ったが変えられなかったという人も多いだろう。
というか、ほとんどだろう。
そこで今年こそは、と考えるわけだが、去年と同じ決意ではまた去年同様変われないわけだ。
だから、去年とは違うアプローチ、作戦を自分に仕掛けなくてはならない。
その作戦とは人それぞれだろう。
まず、基本を外していないかを確認してみよう。
『
完訳 7つの習慣 人格主義の回復
』に「影響の輪」と「関心の輪」という概念が出てくる。
意識の高い人ほど、様々なことに関心がある。
それに反して人間の時間は有限だ。
関心があるからといって、いちいち食いついていたら、本来自分がやろうと思っていたことを実行する時間が少なくなる。
少なくなるだけならまだいい。継続できているならば。
たいていの人間は、時間が少なくなるだけではなく、本来やろうと思っていたことをやめてしまうのだ。
つまり、「やりたいけど、あえてやらない」という選択が絶対に必要なのだ。
一方で、「人間の時間は有限なのだから、やりたいことを躊躇せずにやるべきだ」という意見を述べる人がいる。
人間は自分に甘いので、自分を騙す形で、その時の自分にとって都合のいい論理、あるいは成功者の片言隻句を自分の都合のいいように解釈する。
なので、その余地も排除しておく必要がある。
わかりやすい例をして「ダイエット」を取り上げてみよう。
「ダイエットしたい」というのは、関心の輪の中にあり、かつ影響の輪の中にもある。
例えば、食事制限や運動などで、自分が実際に影響を与える(効果をもたらす)ことが可能だからだ。
同時に、毎日有名ラーメン店めぐりをして、お腹いっぱいラーメンを食べたいという関心があったとする。
さらに毎日有名ラーメン店巡りをする金と時間があれば、それは影響の輪にも入ってくる。
このとき、「ダイエットして痩せたい」というのも自分のやりたいことだが、
同時に「美味しいラーメンを毎日お腹いっぽい食べたい」というのも自分のやりたいことなわけだ。
食事制限をすれば、ダイエットは成功する。これは誰でも分かっていることだ。
つまり、ダイエットというものは既にやり方が分かっていることであり、要はやるかやらないかだけだ。
ダイエットをしたければ、やればいいだけ。
しかし、人間はなぜか、結果が相反する別の欲望を同時に満たそうとする。
つまり、「美味しいラーメンを毎日お腹いっぽい食べたい」という欲望だ。
その時に使用する都合のいい論理が「人間の時間は有限なのだから、やりたいことを躊躇せずにやるべきだ」という論理だ。
そういう意見がそれ自体として間違っているわけではない。
そういう意見をそういう風に使うことが間違っているのだ。
当たり前だが、「人間の時間は有限なのだから、やりたいこと(美味しいラーメンを毎日お腹いっぽい食べる)を躊躇せずにやる」とダイエットして痩せるというこれまた「やりたいこと」が達成できない。
ここでわかるのは、やりたいこと=欲望には、すぐに達成可能なものと、ある程度の継続的な作業なり努力なりが必要なものがあるということだ。
すぐに達成可能な欲望を満たし続けていると、ある程度の継続的な作業なり努力なりが必要な欲望が達成できない。
逆にある程度の継続的な作業なり努力なりが必要な欲望を達成するためには、すぐに達成可能な欲望を切り捨てなくてはならない。
通常、人は冷静に判断した場合、たいていの人は後者を選択する。
つまり、毎日美味しいラーメンをお腹いっぱい食べ続ければ、その時その時は満足するかもしれないが、脂肪でブヨブヨになった体に耐えねばならない。
ところが、人間はこのような冷静な判断が突如できなくなる。
この「冷静な判断ができなくなる」ことが、物事が達成できない、人が変われない原因である。
冷静な判断を失わせる原理をゴムひもの例えで考えてみよう。
ゴムひもの片側が自分につながっていて、もう片方が達成したいゴールにつながっていると考える。
まず、美味しいラーメンを食べるという行為は、すぐ達成できるという意味で言えば、自分とゴムひもの片側との距離が近いと言える。しかも、引っ張られている力が強烈である。この、「引っ張られている力が強烈」というのは、真夏の暑い日に喉がカラカラの状態のとき、目の前にコカ・コーラが置かれている状態をイメージすればわかりやすいと思う。
ダイエットで空腹の状態のとき、目の前に超美味しいと評判のラーメン店があるということだ。
それに対して、ダイエットはどうだろう。
例えば、90キロの人が60キロになりたいとする。
今、頑張って3キロ落とし、87キロだ。でもあと27キロ落とさなければならない。
ゴムひものイメージでいうと、ゴムの端は自分からはるか遠く、見えない感じだ。
では、引っ張られる力はどうだろうか。
これは、個人個人による。
痩せたいという気持ちが強烈か、そうでないか。
この例でわかることは、ラーメンを食べるという行為は達成するのが簡単だ。
走ってゴールに達成するというイメージに変換すると、一歩でゴールに到達できてしまうイメージだ。
これに対して、ダイエットで30キロ落とすというのは、ゴールが100キロ先というイメージだ。
まず、簡単にはたどり着かない。
ゴールに到達するということは、快感が発生することを意味する。
目の前に2つの選択肢がある。
一方は、一歩踏み出せば快感が得られる。
もう一方は、いつかは快感が得られるかも知れないが、それにはあと何歩進めばいいのか、どのくらいの時間がかかるのかイマイチ不明である。
ここで冷静な判断が吹っ飛ぶ。
なので、この基本パターンとなる状況を徹底的に考えておけばいい。
あとはその応用にすぎない。
2つの欲求の違いを見ておこう。
ラーメンを食べたいをいうのは、いわば生理に根ざした三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)だ。
それに対して、ダイエット欲求というのは、その本能に逆らわないと達成できない、社会的情報的欲求だ。
空腹とは、一人でいても空腹だし、みんなといても空腹だ。
いかしダイエット欲求というのは、一人でいて、かつ鏡を見なければ耐えられてしまうものだ。
つまり、普通に勝負しただけでは、ラーメン食べたいが勝ってしまうのだ。
そこで、ダイエットしたい欲求を勝たせる戦略を立てるにあたっての前提がIQの高さの維持とリラックスとトレーニングによる癖付け・習慣付けだろう。

まず、どんな戦略をたてようが、そのたてた戦略そのものが頭から吹っ飛んでしまっては戦略をたてた意味が全くない。
しかし、生理的欲求というものには、全てをふっ飛ばしてその欲求を満たそうとする力がある。
図1で言うと、視野が赤丸の範囲に狭まっている状態だ。
もう、ラーメン食べたいしか見えなくなっている。
ダイエットなんて知ったことかという状態だ。
こうなってしまっては、戦略も何もない。
まず、視野を最低緑丸の範囲に維持するIQの高さを保つことが重要だ。
IQの高さを維持するためにはリラックスが不可欠だ。
例えば、目の前にいる人から嫌味を言われてカーッときたとする。
しかし、たいていの人は例え相手を殴りたいと思ってもいきなり殴ったりしないだろう。
言い返すくらいはするかもれない。
それは、冷静さが保たれているからに他ならない。
つまり、カーッと来ていることは来ているのだが、同時に「実際に殴ってしまったらどうなるか」という結果をキッチリ認識できるだけのIQが保たれているのだ。
普通、IQが高く保たれるためには、リラックス状態が必須条件となる。
カーっと頭に血が登った状態時はIQが下がる。
実際に殴ってしまったら、場合によっては傷害罪で逮捕され、会社を解雇されたりして道を踏み外す可能性がある。
つまり強制的に罰せられるシステムが作動することが分かっているため、それが「覚める」契機をもたらす。
リラックスとまではいかないが、頭に血が登った状態(扁桃体優位状態)から、強制的に前頭前野が介入する契機が生まれるのだ。
ところが、ラーメンを食べたところで、誰からも罰せられることはない。
ラーメンを食べる事自体は、悪いことでも何でもない。
単なる「食事」だ。
単に、食事をして何が悪い。
俺に飯を食うなを言うのか。
三食食べるのは普通だろう。
…
このように自分がラーメンを食べてもいいという論理で自分の頭を埋め尽くし、ダイエットという目標を自分の頭のなかから排除してしまう。
つまり「覚める」契機がないのだ。
しかし、ラーメンを食べるという行為をしたら逮捕されるというくらい強烈な「覚める契機」をつくることは現実的でない。
そこで、逆の戦略をたてる。
すなわち、「ラーメンを食べなかったら褒められる」という状態を作り上げるわけだ。
ラーメンを食べなかったということは、しっかりとIQの高い状態を保ち(視野を広く保ち)、目の前の強烈な誘惑に勝ったということを意味する。それができたら褒められるわけだ。
褒められたら人間、気持ちが良いわけだ。
ラーメンを食べない→褒められる→気持ちがいい
という回路をトレーニングで作り上げてしまうのだ。
逆に、食べてしまうということは、広い視野を手放し(IQが下がり)、本来達成したいゴールを頭の中から放逐したということだ。この「嫌な感じ」とラーメンを食べるをいう行為とを結びつける。
つまりラーメンを食べることによって得られる快感より、食べてしまったことによる不快感の方を大きくしてしまう。
逆に食べることによって得られる快感より、食べなかったことによる快感の方を大きくしてしまう。
図1において、自分とラーメンのゴールとの距離を引き離すことはできない。
一歩踏み出せばラーメンを食べることは現実的に可能なのだから。
同時に、自分とダイエットのゴールを縮めることもできないわけだ。
1日で30キロ落とすのは現実的に不可能だからだ。
しかしトレーニングによって、ラーメン食べるという快感よりも食べない快感の方を強くしていけば、どうなるか。

図2を見てもらいたい。
自分からラーメンのゴールまでの距離は変わっていない。
一歩踏み出せば、美味しいラーメンを堪能できる。
同時に自分とダイエットのゴールとの距離も変わっていない。
長期間を費やさなければ達成できないことにはかわりない。
何が変わったか。
ゴムひもの引きの強さである。
ラーメンを食べるということは、食欲を満足させるという快感があるわけだ。
しかし、その快感よりも、食べてしまったという不快感の方が強いので相対的に食べたいという欲求レベルは下がる。
逆にラーメンを食べず、ダイエットのゴール達成へ向けて歩みを進めることは、食欲は満たされないという不快感はあるが、本来のゴールへ向けて歩みを進められた快感の方が大きいわけだ。
ゴムひもの引きの強さを道路広さの例えに置き換えて見よう。
まず、図2の自分周辺を拡大すると、以下の図3のようになる。

つまり、ラーメンのゴールが一歩先にあるのは何にも変わらない。
しかし、そこへの道は、ちょっと道とは呼べないような、誰も道だとは気がつかないようなものだ。
それに対して、ダイエットのゴールは見えないけれども、そこへの道は明らかに道であり、舗装された大通りであり、もう道は他には見当たらないような環境である。
こうなってしまえば、もうその道をゆく以外の選択肢はない。
その道をゆく以外の選択肢はないのだから、自動的にその道をゆくことになり、必然的に本来のゴールが達成される。
つまり、自分が変われるということだ。
勝負は図3の状態に自分を持っていけるかどうかだ。
そこで使う戦術として私が紹介したいのが「ほめ日記」というものだ。
私は「「ラーメンを食べなかったら褒められる」という状態を作り上げる」と書いたが、実はこの状態は自分で自分を褒めることによって作り出すのだ。
実はこのほめ日記にはもっともっと深い意味があるので、ここで私がほめ日記について説明するよりも、是非以下のアマゾンリンクを参照していただき、ほめ日記を理解・実践していただきたいと思う。
『ほめ日記』手塚千砂子さんのページ
←いつも応援のクリックありがとうございます。
あなたのクリックが大変励みになっております。自分を変えようと思ったとき、もう一つ気をつけなければならないのが逃避だ。
話を最初の「影響の輪」と「関心の輪」に戻す。
世の中には、重要なことは数限りなくある。
考える価値のあること、勉強する価値のあること、山ほどある。
しかし、「考える価値がある」とか「勉強する価値がある」ということを言い訳に逃避してはならない。
例えば、ある試験にチャレンジしようと決意して、この一年はその勉強に時間を使おうと決意したとする。
ところが、勉強をはじめて1ヶ月くらいたったとき、突然、地球環境問題を研究しだしたり、歴史学に興味をもって歴史学の専門書を読み出したりする人がいる。
地球環境問題が重要でないとか、歴史学がどうでもよいとか言っているのではもちろんない。
どちらも重要だ。
しかし、今年1年は試験勉強に集中しようと決意したにもかかわらず、その勉強をそっちのけにして突如、地球環境問題を研究したり、歴史学の専門書を読み出すのは逃避以外の何ものでもない。
あくまでも「影響の輪」に集中すべきなのだ。
人間には関心のあることは山ほどある。
しかし、関心があるというだけの理由でいちいち食いついていたら、本来自分がやろうと思っていたことに注ぐことができる時間と労力が少なくなり、結局、何も達成できないで終わる。
ここでも、逃避しなかった自分を徹底的に褒めることによって、常に王道を歩むことができるよう、トレーニングすることが必要だ。
一度に色々やろうとしないことだ。
まず、本当に達成したいことを達成するようにのみ動けばいい。
途中で何か新しい、美味しそうなオファーが目の前にぶら下がってきても無視することだ。
そんなオファーを逃しても全く問題はない。
なぜなら、それをしないと選択することによって、本来の目標達成により近づくことができるのだから。
自分がスルーしたオファーに対してはこう考えることだ。
「あのオファーは、自分とっては何の価値もないものであったにちがいない」
人間は、知ったことは知ったこととして死んでゆく。
逆に知らなかったことは、知らないまま死んでゆく。
そういう存在でしかない。
何かができなかったとか、何かを得られなかったとかいう過去を悔やんでも何の意味もない。
それは、もう過ぎ去った過去は戻ってこないという意味もあるが、できなかった何かができたことで、あるいは得られなかった何かを得たことで、あなたが今以上に幸せになっているという保証はどこにもないからだ。
人生のIFを想像することは自由だが、そのIFの人生が必ず今の人生以上に幸せだと考えるならば、それは妄想と何らかわらないものに過ぎない。
だから、自分がこの1年、これだけをやろう、これだけやって結果を出そうを決意したなら、途中どんな魅力的な話が舞い込んできても、自分の決めたことだけを貫いて、その「魅力的な話」は完全無視で構わない。
「影響の輪」のみに集中するんだ。関心の輪はシカトだ。
もう一つ、自分を変えようとする際に気をつける必要があるのが「努力」という言葉だ。
苫米地英人さんが『
努力はいらない! 「夢」実現脳の作り方
』というタイトルの本を書いている。
この本のタイトルだけを見て、努力することに罪悪感を覚えている人がいる。
「自分は今、努力している。ということはひょっとして自分は本来やりたくないことをやっているのではなかろうか」と。
こういうのは一番マズい本の読み方なのだが…
では苫米地さんの書いた別の本を参照してみよう。
「成功するのに努力はいらないと言ってきましたが、…(中略)…コンフォートゾーンをずらす
努力はいります。」(『
世界一簡単に目標がかなう 成功脳の作り方
』P68)
「すべての親は、この洗脳の流れを自分の代で断ち切るべく、
最大限の努力をしなければならない。」(『
脱洗脳教育論―日本再生のカギはすべてここにある!!
』P157〜158)
さらに、努力という言葉ではないが、同じ『
脱洗脳教育論―日本再生のカギはすべてここにある!!
』から次のような文章も引用しておく。
「つまり、親も勉強することだ。…(中略)…たとえば、政治について考えるなら、最低ホッブスやロック、ヒューム、バークレーを読み、日本文化や宗教についてなら、本当の意味での仏教を学び、儒教や道教についても知っておくべきだ。」(P158)
「家に帰って、酒を飲みながらテレビを見ているような生活を止めることだ。そんな人間に、親の資格はない。子どもは親の姿を見て育つ。テレビを見ている姿を、親は子どもに見せてはいけない。」(P167)
「親は子どもたちに、学校での授業と同じくらいの時間、勉強させなければならない。小学校、中学校はもちろん、大学までだ。それは、そのくらいの勉強をしないと、学校に行っても、何の意味もないからだ。」(P169)
「大学を卒業した親は、普通に考えて、中学校くらいまでの勉強を教えられなければ、おかしい。英文科卒の親が、高校の数学は教えられないというのは理解できるが、中学校は全科目をおしえられるようでなければ、親の資格はない。」(P172)
「「この世に正しい唯一のモノサシは存在しない」ということは、この世に存在するすべての価値観や倫理、思想、考え方を自分で考え、自分で判断するということである。そのためには、一般教養を身につけることが非常に重要であり、大学四年生くらいまでの月日をかける必要がある。
これは決して楽な生き方ではないかもしれない。しかし、ここで言う楽な生き方とは、奴隷として楽だということだ。」(P185〜186)
どうだろうか。
苫米地氏は、努力不要論を唱えているわけではない。
そこは読み違えてはならない。
あくまでも奴隷としての努力をやめろ言っているのであり、奴隷をやめるための努力はするべきだし、しなければならないとまで言っている。
しかも、苫米地さんが「親」に要求するMUSTは極めてレベルが高い。
常人にとっては、それこそ努力が必要だろう。
でもそれでいいのである。
わたしたちにとって、それは「奴隷を脱するためにあえてしたい努力」なのだから。
多いに努力して、自分を変えようではないか。
最後に、渡辺和子さんが『
面倒だから、しよう
』という本を書いている。
渡辺和子さんという方は賛否両論ある方だが、そんなことはどうでもよく、今年は「面倒だから、やる」をモットーに大いに努力し、自分の本来のゴールを達成し、自分を変革させていきましょう。
←最後までお読みいただきありがとうございます。あなたのクリックを励みに
これからも楽しんでいただけるような記事を執筆して参りたいと思います。主権者国民連合TBP