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2019.07.08

風花回廊

久々のブログ更新となりました。

前回の執筆が2017年3月18日ですから、2年以上経過したわけです。
初めての投稿が2011年5月26日ですから、それからは8年以上経過しているわけですね。

時の経つのは早いものです。

最近、風花未来さんが「風花回廊」という企画を展開なさっており、その中で風花さんがブログ記事を書き続ける真の理由として

”人でいたいから。人らしくあり続けたいからです。”

と仰っていました。

私はこの言葉にある種の得心がいったように感じました。

最近流行りのYoutuberもそうですが、皆さん、お金が欲しい。
それはよく分かりますし、私もお金は欲しいです(笑)

そのお金儲けのツールとして、ブログや動画を存在させている風潮があるように思われます。

しかし、人が何かをするということは、人生の時間を使うということです。
ブログを書くという行為も、動画を撮影してアップするという行為も、限りある人生の時間を使って行われることです。

その真実を前にしたときに、「金儲けの手段のみのためのブログ」を書いている人と、「人でいたいから。人らしくあり続けるための手段としてのブログ」を書いている人とでは、「人生の価値」という次元において根本的な違いがあると言わざるを得ません。

私は最近特に「死」という観念を含めて考えられていない思想や行為は、薄っぺらくて付き合いきれないという思いが強いです。
つまり、金儲けは生きていく上で大切ですが、では、「金儲け」と「死」とはどう関わり、どう繋がっているのか。

それは「金儲け」は「人生」とどう関係するのかとも言い換えられますが、そのような問いを前にしたとき、「人の価値は稼いだ金銭の多寡のみによっては判断できない」という極々当たり前の真実さえ理解することができれば、「金儲けの手段のみのためのブログ」を書くという行為がいかに「非効率」なことかがわかるでしょう。

ネットに書かれている風花さんの評価の中で、次のようなものがありました。
要約すると、風花さんのやり方は「遠回り」だというものです。
何が「遠回り」なのかというと、「金儲けをするには」遠回りだという意味らしいです。

では、その方が仰る「近道」とは何なのかというと、より「金儲けの手段のみのためのブログ」にシフトせよと言っているように私には聞こえました。しかしながら、今まで考察してきたように、これは「近道」のように見えて、これこそが「遠回り」なのではないでしょうか。

このようなことを言うと「金儲けを甘くみている」と反論なさる方がいらっしゃいます。
しかし、私に言わせるとそのような反論をなさる方は、金儲けはシビアに考えていらっしゃるかもしれませんが、人生を甘くみていらっしゃる。

なぜなら、金儲けは人生の一部であり、人生が金儲けの一部ではないからです。
もちろん、金儲けは人生の一部とは言っても、かなり重要な一部であることは認めます。
重要な一部だからこそ、皆さんお金を欲しがるし、私も例外ではないわけです。
しかし、どこまでいっても金儲けは人生の重要な一部という位置づけに留まるのであって、それが逆転することはありません。

この文章の最初の方に、「初めての投稿が2011年5月26日ですから、それからは8年以上経過している」と書きましたが、実は私がブログを始めたきっかけは風花さんの影響です。この8年間、中断しつつもまた私がこうしてブログに戻ってくるのは、風花さんがブログというものを人生と結びつけて考えておられ、そのような考え方に私が感化されているからだと思います。

今、自分がこの8年間書いてきたことを読み返すと、いかに稚拙なことを書いていたのかと恥ずかしくなります。
しかし恥ずかしく思うということは、私がこの8年間、私なりに、亀の歩みではありましたが、考え、行動し、生きてきたことによって思想が進化かつ深化したからだとも言えるわけで、その意味では、まあまあ自分を褒めてあげてもいいのではないかと思います。

皆さまも、是非一度、「風花回廊」で風花スタイルの風を感じてみてはいかがでしょうか。


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02:59 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017.03.18

最近考えていること

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最近考えていること。
人の考えというものは変わるものだ。
最近はスピリチュアルを人生の基底におくようになった。

信じるということ。

あの世はなく、生まれ変わりもなく、この一回きりの人生が終わればすべてが終わり…
なのかもしれない。

そうではないのかもしれない。

それはわからない。

議論してもしょうがない。

自分が余命宣告されたとする。
あと3か月の命だと。

その時どう思うか。

あの世があるかどうかについて悩み続けた人生だったな…とは思いたくない。
なぜなら、あるかないかは3か月後に嫌でも分かるからだ。


いずれ嫌でもわかるのである。

だったらその時分かればいいではないか。

そんなことについて悩み、考えるのは意味がない。

あると信じたければさっさと信じて、幸せな人生を送ったほうがいい。

もし、死んでからあの世なんかなかったということに気づいても全く損はしない。

なぜなら、その時は「無かった」と思うことすらできないはずだから。

では、無いと思って生きればいいではないか?

いや、あるかもしれないという不安をいつも抱えながらの人生になるのである。

だから私はさっさと信じることにする。

あの世はあるし、生まれ変わりもあると。

斉藤一人さんが好きです。

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「信じる」ことは不自由をもたらすだろうか。

いや逆である。

信じることは私を自由にする。

恐れから解放されるからだ。

チェスタトンが好きだ。

久々のブログ更新でした。

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01:13 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014.10.28

岡崎久彦氏死去

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2014年10月26日
岡崎久彦氏が死去した。

岡崎氏は、朝まで生テレビにもよく出演なさっていて、私もよく見ていた。
以下の著書はあまりに有名だろう。



保守派の論客であったが、いわゆる親米保守という立場で同じ保守でも西部邁氏とは
立場を異にしていた。
日本は今後、アングロサクソンと共に歩めば間違いないという
ある意味わかりやすい主張をされていたように思う。

私は、その点あまり肯んじられなかったが。

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それはさておき、私が氏の著作で印象に残っているのは

などで、ルビがふられていることである。

いちいち漢和辞典にあたらずとも、音読できるように配慮されている。

このあたりの青少年に対する心遣いはさすがだと思った。

私とは考え方が多少違ったにせよ、優秀な頭脳であったことは間違いないのだろう。

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01:40 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014.01.04

この1年だけでいいから冷たい海を泳いでみよう

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変わりたいと思っているのに変われないという人。

なぜ変われないか。

それは自分を守っているからだ。

変わるっていうのは、今の自分じゃないところへ行くこと。

ところが、人間にとって、それはとっても不快なことなんだ。

人間にとって心地良いのは現状維持。

その現状維持から抜けだそうというのだから、それはそれは不快なことなんだ。

変わろうとするということは、敢えて不快なことをやるということ。

敢えてストレスがかかることをやるということ。

ただやるのではなく、やり続けること。

敢えて嫌なことをやること、やり続けること。

敢えて温かいこたつから抜けだして、寒冷地へと赴くこと。

しかも、それを誰から頼まれたわけでもないのに、自分からやること。

自分を変えるってこういうことなんだよ。

だから、安楽椅子に座ったまんまとか、あったかいこたつに入ったまんま、自分を変えるとか、ありえないわけ。

ふりとか、どうでもいい。

格好とか、どうでもいい。

人目とか、どうでもいい。

つらい、苦しい、ストレスがたまる、眠い、疲れた、しんどい、寒い、暑い、不快だ、そんな感じを持ち続けること、それは変わっている証拠だ。つまり、現状維持の状態の外側にいるということだから。

そうやって外に飛び出すとね、色々しんどいんだよ。

でも、そのしんどさっていうのは、勲章だ。

大多数の人間は、そのしんどさを避ける。

そして、現状維持に留まる。

昨日も、今日も、明日も、同じような日々を送って年をとってゆく。

そんな人生を考えたとき、ゾッとしないか?

少なくても私はゾッとした。

自分が自分として生きるために、飛び込むんだ。

そして、寒さの中を、ストレスの海を、泳ぎ続けるんだ。

人の声なんて聴かなくていい。

自分の内なる声だけ聞けばいい。

自分の声を聴かずに、なぜ人の声を聴くんだ?

人の声は自分の声より、価値が高いのか?

人の声は自分の声より、正しいのか?

人というのは、親、教師、上司、同僚、友達、etcのことだ。

そんな人達の声が正しい保証は全くない。

人のいうことを聴くな。自分の声だけ聴いていればいい。

もっと言う。人の言うことは全部無視しろ。

それから、やることが決まったら、それだけをやれ。

もう、他のものをキョロキョロ見るな。

ネットサーフィンは一切するな。

余計なメルマガは全て解除しろ。

テレビも見るな。

余計な本も読むな。

とにかくやると決めたことをひたすらやれ。

時間は有限だ。

やると決めたことだけをひたすらやるんだ。

余計な自己啓発本も買わなくていい。

そんな本を読んでいる暇があったら、やると決めたことをやれ。

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人に笑われることを恐れるな。

人と比較するな。

人はどうでもいい。

人からどんなにバカにされたって構わない。

自分が決めたことを自分がキッチリできればそれでいい。

自分の評価は自分がすればいいのだ。

勝手に自分を評価してくる他人はいるだろう。

勝手に評価させておけばよい。

そいつの評価なんかどうでもいいのだから。

そいつというのは、親だったり、教師だったり、上司だったり、同僚だったり、友達だったりする。

そいつらからの評価なんか、完全にどうでもいいのだ。

余計な観念にとらわれるな。

コントロールすべきは自分なんだ。

人は往々にして自分で自分を無意味に縛り付けている。

その縛りをぶち切るんだ。

そして、突き進むんだ。

自分の全てを自分がやろうと思ったことに注ぎこむんだ。

つらいぞ、飽きるぞ、モチベーションが低下するぞ、眠いぞ、面倒臭いぞ、いつでもやめられるぞ、やめても誰にも怒られないぞ、やめても誰にも注意されないぞ、そんな努力だれもお前に頼んでないぞ、お前が勝ってにやっていることだぞ、やっぱり出来ないんじゃないかと思うぞ、やぱっり、ムリしないでみんなと同じ人生送った方がずっと気楽なのではないかと思うぞ、

別にやめてもいいよ。

どうぞ、やめて下さい。

あなたがやめても誰も困りませんから。

あなた自身すら困らないかもしれない。

でも、あなたはやめた代償として、現状維持というクソみたいな人生を歩むことになる。

大多数の人間が現状維持というクソみたいな人生を歩むんだから、別にあなた一人じゃないから。

全く構わないですよ。

やるかやらないか。

続けるかやめるか。

それも含めて全部あなた次第なんだ。

奴隷としての安楽に留まるのか、そこから自力で抜け出すのか。

全部あなたが決めること。

誰も決めてくれません。

あなたが全部決めるのです。

そしてあなたが行動するのです。

誰もあなたの代わりに行動してくれません。

そしてあねたが継続するのです。

誰もあなたの代わりに継続してくれません。

そしてその結果あなたが、ゴールに到達するのです。

そのゴールには、あなた以外誰も到達できません。

あなたしか到達できないのです。

現状維持を選択したその他大勢は到達できない地点にあなただけが立てるのです。

そのために、冷たい海に飛び込んで泳ぎつづけるのです。

1年間でいい。365日だけでいい。

366日目には、こたつに戻っていい。安楽椅子に座っていい。

だた、この1年間だけ、楽しいことが全くない1年にしてみませんか。

この1年間だけ、楽なことが全くない1年にしてみませんか。

この1年間だけ、もっとも過酷な刑務所に入りませんか。

この1年間だけ、自分の人生を捨ててみませんか。

一生とはいいません。

今年1年だけと決めて走ってみませんか。

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04:46 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014.01.03

今年こそ自分を変えるために

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2014(平成26)年がはじまった。

去年、自分を変えようと思ったが変えられなかったという人も多いだろう。
というか、ほとんどだろう。

そこで今年こそは、と考えるわけだが、去年と同じ決意ではまた去年同様変われないわけだ。

だから、去年とは違うアプローチ、作戦を自分に仕掛けなくてはならない。

その作戦とは人それぞれだろう。

まず、基本を外していないかを確認してみよう。

完訳 7つの習慣 人格主義の回復』に「影響の輪」と「関心の輪」という概念が出てくる。

意識の高い人ほど、様々なことに関心がある。

それに反して人間の時間は有限だ。

関心があるからといって、いちいち食いついていたら、本来自分がやろうと思っていたことを実行する時間が少なくなる。

少なくなるだけならまだいい。継続できているならば。

たいていの人間は、時間が少なくなるだけではなく、本来やろうと思っていたことをやめてしまうのだ。

つまり、「やりたいけど、あえてやらない」という選択が絶対に必要なのだ。

一方で、「人間の時間は有限なのだから、やりたいことを躊躇せずにやるべきだ」という意見を述べる人がいる。

人間は自分に甘いので、自分を騙す形で、その時の自分にとって都合のいい論理、あるいは成功者の片言隻句を自分の都合のいいように解釈する。

なので、その余地も排除しておく必要がある。

わかりやすい例をして「ダイエット」を取り上げてみよう。

「ダイエットしたい」というのは、関心の輪の中にあり、かつ影響の輪の中にもある。

例えば、食事制限や運動などで、自分が実際に影響を与える(効果をもたらす)ことが可能だからだ。

同時に、毎日有名ラーメン店めぐりをして、お腹いっぱいラーメンを食べたいという関心があったとする。

さらに毎日有名ラーメン店巡りをする金と時間があれば、それは影響の輪にも入ってくる。

このとき、「ダイエットして痩せたい」というのも自分のやりたいことだが、

同時に「美味しいラーメンを毎日お腹いっぽい食べたい」というのも自分のやりたいことなわけだ。

食事制限をすれば、ダイエットは成功する。これは誰でも分かっていることだ。

つまり、ダイエットというものは既にやり方が分かっていることであり、要はやるかやらないかだけだ。

ダイエットをしたければ、やればいいだけ。

しかし、人間はなぜか、結果が相反する別の欲望を同時に満たそうとする。

つまり、「美味しいラーメンを毎日お腹いっぽい食べたい」という欲望だ。

その時に使用する都合のいい論理が「人間の時間は有限なのだから、やりたいことを躊躇せずにやるべきだ」という論理だ。

そういう意見がそれ自体として間違っているわけではない。

そういう意見をそういう風に使うことが間違っているのだ。

当たり前だが、「人間の時間は有限なのだから、やりたいこと(美味しいラーメンを毎日お腹いっぽい食べる)を躊躇せずにやる」とダイエットして痩せるというこれまた「やりたいこと」が達成できない。

ここでわかるのは、やりたいこと=欲望には、すぐに達成可能なものと、ある程度の継続的な作業なり努力なりが必要なものがあるということだ。

すぐに達成可能な欲望を満たし続けていると、ある程度の継続的な作業なり努力なりが必要な欲望が達成できない。

逆にある程度の継続的な作業なり努力なりが必要な欲望を達成するためには、すぐに達成可能な欲望を切り捨てなくてはならない。

通常、人は冷静に判断した場合、たいていの人は後者を選択する。

つまり、毎日美味しいラーメンをお腹いっぱい食べ続ければ、その時その時は満足するかもしれないが、脂肪でブヨブヨになった体に耐えねばならない。

ところが、人間はこのような冷静な判断が突如できなくなる。

この「冷静な判断ができなくなる」ことが、物事が達成できない、人が変われない原因である。

冷静な判断を失わせる原理をゴムひもの例えで考えてみよう。

ゴムひもの片側が自分につながっていて、もう片方が達成したいゴールにつながっていると考える。

まず、美味しいラーメンを食べるという行為は、すぐ達成できるという意味で言えば、自分とゴムひもの片側との距離が近いと言える。しかも、引っ張られている力が強烈である。この、「引っ張られている力が強烈」というのは、真夏の暑い日に喉がカラカラの状態のとき、目の前にコカ・コーラが置かれている状態をイメージすればわかりやすいと思う。

ダイエットで空腹の状態のとき、目の前に超美味しいと評判のラーメン店があるということだ。

それに対して、ダイエットはどうだろう。

例えば、90キロの人が60キロになりたいとする。

今、頑張って3キロ落とし、87キロだ。でもあと27キロ落とさなければならない。

ゴムひものイメージでいうと、ゴムの端は自分からはるか遠く、見えない感じだ。

では、引っ張られる力はどうだろうか。

これは、個人個人による。

痩せたいという気持ちが強烈か、そうでないか。

この例でわかることは、ラーメンを食べるという行為は達成するのが簡単だ。
走ってゴールに達成するというイメージに変換すると、一歩でゴールに到達できてしまうイメージだ。

これに対して、ダイエットで30キロ落とすというのは、ゴールが100キロ先というイメージだ。
まず、簡単にはたどり着かない。

ゴールに到達するということは、快感が発生することを意味する。

目の前に2つの選択肢がある。
一方は、一歩踏み出せば快感が得られる。
もう一方は、いつかは快感が得られるかも知れないが、それにはあと何歩進めばいいのか、どのくらいの時間がかかるのかイマイチ不明である。

ここで冷静な判断が吹っ飛ぶ。

なので、この基本パターンとなる状況を徹底的に考えておけばいい。

あとはその応用にすぎない。

2つの欲求の違いを見ておこう。

ラーメンを食べたいをいうのは、いわば生理に根ざした三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)だ。
それに対して、ダイエット欲求というのは、その本能に逆らわないと達成できない、社会的情報的欲求だ。

空腹とは、一人でいても空腹だし、みんなといても空腹だ。
いかしダイエット欲求というのは、一人でいて、かつ鏡を見なければ耐えられてしまうものだ。

つまり、普通に勝負しただけでは、ラーメン食べたいが勝ってしまうのだ。

そこで、ダイエットしたい欲求を勝たせる戦略を立てるにあたっての前提がIQの高さの維持とリラックスとトレーニングによる癖付け・習慣付けだろう。

図1_視野の範囲.jpg

まず、どんな戦略をたてようが、そのたてた戦略そのものが頭から吹っ飛んでしまっては戦略をたてた意味が全くない。
しかし、生理的欲求というものには、全てをふっ飛ばしてその欲求を満たそうとする力がある。
図1で言うと、視野が赤丸の範囲に狭まっている状態だ。

もう、ラーメン食べたいしか見えなくなっている。
ダイエットなんて知ったことかという状態だ。

こうなってしまっては、戦略も何もない。

まず、視野を最低緑丸の範囲に維持するIQの高さを保つことが重要だ。

IQの高さを維持するためにはリラックスが不可欠だ。

例えば、目の前にいる人から嫌味を言われてカーッときたとする。
しかし、たいていの人は例え相手を殴りたいと思ってもいきなり殴ったりしないだろう。
言い返すくらいはするかもれない。

それは、冷静さが保たれているからに他ならない。
つまり、カーッと来ていることは来ているのだが、同時に「実際に殴ってしまったらどうなるか」という結果をキッチリ認識できるだけのIQが保たれているのだ。

普通、IQが高く保たれるためには、リラックス状態が必須条件となる。
カーっと頭に血が登った状態時はIQが下がる。

実際に殴ってしまったら、場合によっては傷害罪で逮捕され、会社を解雇されたりして道を踏み外す可能性がある。
つまり強制的に罰せられるシステムが作動することが分かっているため、それが「覚める」契機をもたらす。
リラックスとまではいかないが、頭に血が登った状態(扁桃体優位状態)から、強制的に前頭前野が介入する契機が生まれるのだ。

ところが、ラーメンを食べたところで、誰からも罰せられることはない。
ラーメンを食べる事自体は、悪いことでも何でもない。
単なる「食事」だ。
単に、食事をして何が悪い。
俺に飯を食うなを言うのか。
三食食べるのは普通だろう。


このように自分がラーメンを食べてもいいという論理で自分の頭を埋め尽くし、ダイエットという目標を自分の頭のなかから排除してしまう。

つまり「覚める」契機がないのだ。

しかし、ラーメンを食べるという行為をしたら逮捕されるというくらい強烈な「覚める契機」をつくることは現実的でない。
そこで、逆の戦略をたてる。
すなわち、「ラーメンを食べなかったら褒められる」という状態を作り上げるわけだ。

ラーメンを食べなかったということは、しっかりとIQの高い状態を保ち(視野を広く保ち)、目の前の強烈な誘惑に勝ったということを意味する。それができたら褒められるわけだ。
褒められたら人間、気持ちが良いわけだ。

ラーメンを食べない→褒められる→気持ちがいい

という回路をトレーニングで作り上げてしまうのだ。

逆に、食べてしまうということは、広い視野を手放し(IQが下がり)、本来達成したいゴールを頭の中から放逐したということだ。この「嫌な感じ」とラーメンを食べるをいう行為とを結びつける。

つまりラーメンを食べることによって得られる快感より、食べてしまったことによる不快感の方を大きくしてしまう。
逆に食べることによって得られる快感より、食べなかったことによる快感の方を大きくしてしまう。

図1において、自分とラーメンのゴールとの距離を引き離すことはできない。
一歩踏み出せばラーメンを食べることは現実的に可能なのだから。

同時に、自分とダイエットのゴールを縮めることもできないわけだ。
1日で30キロ落とすのは現実的に不可能だからだ。

しかしトレーニングによって、ラーメン食べるという快感よりも食べない快感の方を強くしていけば、どうなるか。
図2.jpg

図2を見てもらいたい。

自分からラーメンのゴールまでの距離は変わっていない。
一歩踏み出せば、美味しいラーメンを堪能できる。

同時に自分とダイエットのゴールとの距離も変わっていない。
長期間を費やさなければ達成できないことにはかわりない。

何が変わったか。

ゴムひもの引きの強さである。

ラーメンを食べるということは、食欲を満足させるという快感があるわけだ。
しかし、その快感よりも、食べてしまったという不快感の方が強いので相対的に食べたいという欲求レベルは下がる。

逆にラーメンを食べず、ダイエットのゴール達成へ向けて歩みを進めることは、食欲は満たされないという不快感はあるが、本来のゴールへ向けて歩みを進められた快感の方が大きいわけだ。

ゴムひもの引きの強さを道路広さの例えに置き換えて見よう。

まず、図2の自分周辺を拡大すると、以下の図3のようになる。
図3_拡大.jpg

つまり、ラーメンのゴールが一歩先にあるのは何にも変わらない。
しかし、そこへの道は、ちょっと道とは呼べないような、誰も道だとは気がつかないようなものだ。
それに対して、ダイエットのゴールは見えないけれども、そこへの道は明らかに道であり、舗装された大通りであり、もう道は他には見当たらないような環境である。

こうなってしまえば、もうその道をゆく以外の選択肢はない。
その道をゆく以外の選択肢はないのだから、自動的にその道をゆくことになり、必然的に本来のゴールが達成される。

つまり、自分が変われるということだ。

勝負は図3の状態に自分を持っていけるかどうかだ。

そこで使う戦術として私が紹介したいのが「ほめ日記」というものだ。

私は「「ラーメンを食べなかったら褒められる」という状態を作り上げる」と書いたが、実はこの状態は自分で自分を褒めることによって作り出すのだ。

実はこのほめ日記にはもっともっと深い意味があるので、ここで私がほめ日記について説明するよりも、是非以下のアマゾンリンクを参照していただき、ほめ日記を理解・実践していただきたいと思う。
『ほめ日記』手塚千砂子さんのページ

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自分を変えようと思ったとき、もう一つ気をつけなければならないのが逃避だ。

話を最初の「影響の輪」と「関心の輪」に戻す。

世の中には、重要なことは数限りなくある。
考える価値のあること、勉強する価値のあること、山ほどある。

しかし、「考える価値がある」とか「勉強する価値がある」ということを言い訳に逃避してはならない。

例えば、ある試験にチャレンジしようと決意して、この一年はその勉強に時間を使おうと決意したとする。

ところが、勉強をはじめて1ヶ月くらいたったとき、突然、地球環境問題を研究しだしたり、歴史学に興味をもって歴史学の専門書を読み出したりする人がいる。

地球環境問題が重要でないとか、歴史学がどうでもよいとか言っているのではもちろんない。
どちらも重要だ。

しかし、今年1年は試験勉強に集中しようと決意したにもかかわらず、その勉強をそっちのけにして突如、地球環境問題を研究したり、歴史学の専門書を読み出すのは逃避以外の何ものでもない。

あくまでも「影響の輪」に集中すべきなのだ。

人間には関心のあることは山ほどある。
しかし、関心があるというだけの理由でいちいち食いついていたら、本来自分がやろうと思っていたことに注ぐことができる時間と労力が少なくなり、結局、何も達成できないで終わる。

ここでも、逃避しなかった自分を徹底的に褒めることによって、常に王道を歩むことができるよう、トレーニングすることが必要だ。

一度に色々やろうとしないことだ。
まず、本当に達成したいことを達成するようにのみ動けばいい。
途中で何か新しい、美味しそうなオファーが目の前にぶら下がってきても無視することだ。
そんなオファーを逃しても全く問題はない。
なぜなら、それをしないと選択することによって、本来の目標達成により近づくことができるのだから。

自分がスルーしたオファーに対してはこう考えることだ。
「あのオファーは、自分とっては何の価値もないものであったにちがいない」

人間は、知ったことは知ったこととして死んでゆく。
逆に知らなかったことは、知らないまま死んでゆく。

そういう存在でしかない。

何かができなかったとか、何かを得られなかったとかいう過去を悔やんでも何の意味もない。
それは、もう過ぎ去った過去は戻ってこないという意味もあるが、できなかった何かができたことで、あるいは得られなかった何かを得たことで、あなたが今以上に幸せになっているという保証はどこにもないからだ。

人生のIFを想像することは自由だが、そのIFの人生が必ず今の人生以上に幸せだと考えるならば、それは妄想と何らかわらないものに過ぎない。

だから、自分がこの1年、これだけをやろう、これだけやって結果を出そうを決意したなら、途中どんな魅力的な話が舞い込んできても、自分の決めたことだけを貫いて、その「魅力的な話」は完全無視で構わない。

「影響の輪」のみに集中するんだ。関心の輪はシカトだ。

もう一つ、自分を変えようとする際に気をつける必要があるのが「努力」という言葉だ。

苫米地英人さんが『努力はいらない! 「夢」実現脳の作り方』というタイトルの本を書いている。
この本のタイトルだけを見て、努力することに罪悪感を覚えている人がいる。

「自分は今、努力している。ということはひょっとして自分は本来やりたくないことをやっているのではなかろうか」と。

こういうのは一番マズい本の読み方なのだが…

では苫米地さんの書いた別の本を参照してみよう。

「成功するのに努力はいらないと言ってきましたが、…(中略)…コンフォートゾーンをずらす努力はいります。」(『世界一簡単に目標がかなう 成功脳の作り方』P68)

「すべての親は、この洗脳の流れを自分の代で断ち切るべく、最大限の努力をしなければならない。」(『脱洗脳教育論―日本再生のカギはすべてここにある!!』P157〜158)

さらに、努力という言葉ではないが、同じ『脱洗脳教育論―日本再生のカギはすべてここにある!!』から次のような文章も引用しておく。

「つまり、親も勉強することだ。…(中略)…たとえば、政治について考えるなら、最低ホッブスやロック、ヒューム、バークレーを読み、日本文化や宗教についてなら、本当の意味での仏教を学び、儒教や道教についても知っておくべきだ。」(P158)

「家に帰って、酒を飲みながらテレビを見ているような生活を止めることだ。そんな人間に、親の資格はない。子どもは親の姿を見て育つ。テレビを見ている姿を、親は子どもに見せてはいけない。」(P167)

「親は子どもたちに、学校での授業と同じくらいの時間、勉強させなければならない。小学校、中学校はもちろん、大学までだ。それは、そのくらいの勉強をしないと、学校に行っても、何の意味もないからだ。」(P169)

「大学を卒業した親は、普通に考えて、中学校くらいまでの勉強を教えられなければ、おかしい。英文科卒の親が、高校の数学は教えられないというのは理解できるが、中学校は全科目をおしえられるようでなければ、親の資格はない。」(P172)

「「この世に正しい唯一のモノサシは存在しない」ということは、この世に存在するすべての価値観や倫理、思想、考え方を自分で考え、自分で判断するということである。そのためには、一般教養を身につけることが非常に重要であり、大学四年生くらいまでの月日をかける必要がある。
 これは決して楽な生き方ではないかもしれない。しかし、ここで言う楽な生き方とは、奴隷として楽だということだ。」(P185〜186)

どうだろうか。

苫米地氏は、努力不要論を唱えているわけではない。
そこは読み違えてはならない。

あくまでも奴隷としての努力をやめろ言っているのであり、奴隷をやめるための努力はするべきだし、しなければならないとまで言っている。

しかも、苫米地さんが「親」に要求するMUSTは極めてレベルが高い。
常人にとっては、それこそ努力が必要だろう。
でもそれでいいのである。

わたしたちにとって、それは「奴隷を脱するためにあえてしたい努力」なのだから。

多いに努力して、自分を変えようではないか。

最後に、渡辺和子さんが『面倒だから、しよう』という本を書いている。

渡辺和子さんという方は賛否両論ある方だが、そんなことはどうでもよく、今年は「面倒だから、やる」をモットーに大いに努力し、自分の本来のゴールを達成し、自分を変革させていきましょう。

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主権者国民連合TBP

20:54 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする