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2011.01.19

苫米地英人氏 vs 天野雅博氏 その2

1月15日に『苫米地英人氏 vs 天野雅博氏』という文章を掲載したところ

非常に反響が大きく驚かされております。

そこで、私の考えを敷衍しておきたいと思います。

この問題が面白いのは、苫米地氏のファンと天野氏のファンがいて、

ファン同士が苫米地氏 VS 天野氏の代理戦争をしているところにあります。

ここで「作家と作品との関係」という問題を考えてみましょう。

苫米地氏は、多くの著作を出版しており、苫米地ワークスにて

直接指導を行っております。

一方の天野氏も著作を発表されており、居酒屋革命等、

実業家としての顔をもっています。

例えば、苫米地氏の著作を読んで人生が好転した人がいたとします。

その後、(あくまでも仮の話としてですが)苫米地氏がトンデモナイ詐欺師であった

ことが発覚したとします。本人もそれを認めて謝罪したとします。
(クドいようですがあくまでも仮の話ですよ。)

そうなった場合、苫米地氏の著作を読んで人生が好転した人は

急に人生が暗転するのでしょうか?

そんなことはないはずです。

つまり、苫米地氏の著作としての価値と苫米地氏自身の人格とは

何の関係もないのです。

人格的に高潔な人間が、人の人生を好転させる本を書けるわけではありません。

どんなに人格的に高潔であろうがなんであろうが、

くだらない本はくだらないのです。

くだらない本が、その本を書いた人物が人格高潔な素晴らしい人物であるから

といって持ち上げられるようなことがあってはなりません。

逆に、素晴らしい本が、その本を書いた人物が人格下劣な人物であったから

といってその価値を貶められるようなことがあってはなりません。

本に限らず、別の例で考えてみましょう。

例えば音楽。

作曲者を伏せて音楽を聴かせます。

あ〜いい音楽だな〜と思いました。

ところがです。

実はその作曲者は、連続殺人鬼ですと言われました。

それを聞いた瞬間、その音楽の価値は無くなるのでしょうか?

だって、作曲者を知る前までは、いい音楽だと思っていたではないですか。

つまり、連続殺人鬼が作曲しようとだれが作曲しようと、

いい音楽はいい音楽であるはずです。

天野氏の居酒屋革命で食べた料理が美味しいと思った人がいたとします。

ところがその後、天野氏が(あくまでも仮の話としてですが)

トンデモナイ詐欺師であったことが発覚し、本人もそれを認めて

謝罪したとします(クドいようですがあくまでも仮の話ですよ)。

そうなった瞬間、居酒屋革命で食べた料理の味は

「不味かった」に変わるのでしょうか?

そんなことはないはずです。

どんなに人格高潔な人間がつくろうと、不味い料理は不味いし

どんなに人格下劣な人間がつくろうと、美味い料理は美味いでしょう。

だからといって私は、いい作品さえ作れれば、人としてどんなひどいことを

してもいいなどと言っているのでありません。

むしろ逆で、どんなにいい作品を作った人間であろうと

人間として下劣なら、そいつを下劣だというべきなのです。

その時、そいつがいい作品をつくったから…なんていうことは一切関係ありません。

いい作品をつくろうが何しようが、人格下劣なものは人格下劣なのです。

もちろん逆もあります。

とりたてて業績といえるものは何もない。

しかし、「真面目」だとか、「いい人」だとか。

私がいいたいのは、物事を評価したり批評したりする際には

きちっと(最近流行りの言葉を使えば)「仕分け」をする必要がある

ということです。

今回の問題で、実際に苫米地氏の近く、あるいは天野氏の近くにいて

実際の事情を現認できる立場にあった人ならいざ知らず、

ほとんどの人(苫米地ファン&天野ファン)は、所詮、2次情報、3次情報

に接しているだけですので

「本当のところはどうだったのか?」などどいう事実は

だれもわからないわけですね。

もちろん、苫米地ファンは「天野氏サイドが嘘を言っている」が事実

であって欲しいと思うし、

逆に、天野氏ファンは「苫米地サイドが嘘を言っている」が事実

であって欲しいのでしょう。

でも、そんなことは、知る由もない。

知る由もないことについては、語らなければいいんです。

あるいは「わかりません」でいいんです。

なので、私たちは苫米地氏や天野氏の作品の評価だけしていれば

それでいいんだと思います。

作品は、私たちが実際「知る」ことができます。

苫米地氏の著作を読めばいいんですから。

天野氏の著作を読めばいいんですから。

あるいは、苫米地ワークスへ行って直接指導を受ければいいんですから。

あるいは、居酒屋革命へいって飲食すればいいんですから。

苫米地氏の著作を読んで、くだらない本だと思えば、もう読まなければいいし

苫米地ワークスで直接指導を受けて効果が感じられなければ、

もう行かなければいい。

天野氏の著作を読んで、くだらない本だと思えば、もう読まなければいいし

居酒屋革命の料理が不味いと思えば、もう行かなければいい。

逆に、他人が何と言おうと、苫米地ワークスへ行って効果テキメンだったんなら

今後も行けばいい。

他人が何と言おうと、居酒屋革命が安くて美味しかったんなら今後もいけばいい。

それだけだと思うんです。

いいですか?

仕分けが必要だとさきほど言いました。

例え、苫米地ワークスへ行って効果テキメンだったからといって

苫米地氏が脱法行為をしていることを知ってしまったなら

それはそれとして告発しなくちゃダメですよ。
(あくまでも仮の話ですよ)

いくら、居酒屋革命の料理が美味しかったからといって

天野氏が脱法行為をしていることを知ってしまったなら

それはそれとして告発しなくちゃダメです。
(これも仮の話ですよ)

こんなふうに、自分の頭で考えて物事を仕分けしながら判断してゆけば、

問題は単純です。

やっかいなのは、ファンを通り越した「信者」です。

「信者」にとっては、「ファクト」はどうでもいい。

「苫米地信者」としては「天野氏サイドが間違っているに決まっている」

「その根拠は?」と問えば、「根拠はないが私は苫米地氏を信じている」。

「天野信者」としては「苫米地氏サイドが間違っているに決まっている」

「その根拠は?」と問えば、「根拠はないが私は天野氏を信じている」。

こうなるとやっかいなのです(笑)

わたしは、そんな信者たちへ言いたい。

信じるならせめて「神」にして欲しいと(笑)

苫米地氏も天野氏もあなたと同じ人間ですよと。

あえて下品な表現を使えば

「メシ食って、セックスして、ウンコして、寝て」いる人間ですよ。

ある分野について、自分より明らかに知識が豊富で能力が高いので、

その分野では師と仰ぎ教えを乞うというのはいいと思います。

しかし、それは、その人を神と崇め奉るのとはわけが違う。

表現は正確ではないかもしれませんが、

よく苫米地氏が引用する釈迦の言葉、

「私の指を見るのではなく、私の指が指しているほうを見なさい」

という言葉を噛み締めて欲しいと思います。

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23:58 | Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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Posted by ちゅうかん at 2011.07.19 22:04
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